FLACE MAGAZINE
当社FLACE商品の生産拠点をご案内いたします。中部・中国地方編。
【 FLACE家具は国内生産 】
FLACEカタログのオリジナル製品は木製品・金属製品問わず全て日本国内製造のMade in Japanです。
ファブレスメーカーの当社は生産工場を持たないために、国内の各生産拠点での製品品質や性能に見合った生産ラインを有する国内各家具産地の提携工場にて生産を委託しています。
国内家具産地にはそれぞれ特色がある工場が地場産業として地域の経済に貢献していますが、弊社も地域活性化や地方創成のお手伝いが出来るように、全国9工場(北は山形から南は大分)にて、それぞれのスタイルに合った加工技術を用いて高品質な製品の生産を委託し、お届けしています。 
前回の「家具大工と家具産地の成り立ち」と、東北・関東編の山形・桐生こちらをクリックしてください。
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[ 生産拠点のご案内  ]
中部・中国地方編では、飛騨高山家具産地と備後福山家具産地の伝統と特性をご案内いたします。
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飛騨高山・古い町並(国選定重要伝統的建造物群保存地区) 
[ 飛騨・高山の歴史と伝統 ]
飛騨は日本列島のほぼ中央に位置し、古くは縄文時代から東西南北の文化が複雑に交錯しあい、発展をしてきました。
高山盆地からは東に乗鞍岳、穂高岳、槍ヶ岳、笠ケ岳、西に白山、南に御嶽山が遠望でき、風光明媚なところが随所にあります。
飛騨八景、飛騨名所図会にその風情が描かれ、また漢詩、和歌にも飛騨の自然美あふれる情景が歌われてきました。

大宝律令(701年)では飛騨は山国であり、納める米や織物が産出できないため、律令制の租税を免じられる代わりに匠丁(木挽や大工)を都へ差し出すことが課せられ、飛騨工が毎年約100人が動員されていました。
飛騨工は平城京、東大寺、平安宮の豊楽院や大極殿などの造営に貢献し、名工も生まれました。その技は、現代も高山の木工産業や精密機械工業に受け継がれています。

茶の湯の宗匠千利休の高弟で大名茶人であり、飛騨高山初代藩主の金森長近は1588(天正16)年から13年間で高山城を築城し(日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている)、さらに城下町を作ってのちの高山独自の文化の基礎を築き上げていきました。
高山は「小京都」と呼ばれますが、もともとは今から400年ほど前、戦国武将、金森長近の手によって京都の町になぞらえてつくられた町です。
長近の孫の金森宗和は千道安(千利休の長男)が金森家に隠棲していた日々に奥儀を学び、その後、茶道の一派を開きました。
宗和流茶道を初め、寺社の再興、様々な文化をおこすことも積極的に行なったのでした。
6代に渡る107年間の金森家による高山統治後、天領地とされた江戸時代には、江戸の町人文化と融合した高山祭りに代表される風土や文化を育んできました。
江戸文化と京文化という相反する二つの流れが、天領として保護された高山の町で醸成しながら一つになり、脈々と受け継がれています。
[ 飛騨・高山家具産地の成り立ち ]
飛騨・高山には、古代の平城や平安の造都という国家事業に活躍した「飛騨の匠」と総称される、木づくり文化と伝統があります。
伝統とは、それぞれの時代の技術革新の集積であって、その軌跡が歴史と伝統を創ってきました。
大正時代の高山は生糸生産が主産業であり、木材は素材生産が主で、加工産業は家内工業的なものがほとんどでした。
飛騨地域一円に自生していたブナ材は雑炭か下駄の歯の材料での利用しかされていませんでしたが、1920(大正9)年、大阪で西洋の曲げ木技術を学んだ技術者が高山を訪れ、曲げ木家具の話を聞いた町の有力者たちが、ブナ材に代表される豊富な森林資源と「飛騨の匠」の技術を家具に活用し、西洋家具製作が始まりました。


<飛騨・高山家具産地では1工場で製作しています>
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■飛騨・高山 脚物家具工場
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・VALYRA(ヴァリラ)/ 他2アイテム製作
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瀬戸内・しまなみ海道   
[ 備後福山の歴史と伝統 ]
古代の福山は、現在の市の中心部のほとんどが海の中であり、芦田川流域は新市町、府中市あたりまで深く入り込んだ海で「穴の海」と呼ばれていました。
古くから潮待ち風待ちの港として独自の地位を築いて栄えた「鞆の浦」は、瀬戸内海の中央、沼隈半島の先端に位置し、万葉集でも大伴旅人等に詠まれた歌が八首残されています。

1619(元和5)年、徳川家康の従兄弟であり、大和国郡山藩主(奈良県)だった水野勝成は、毛利氏などの中国筋の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として備後へ移封、福山藩10万石の初代藩主となります。
転封3年後に福山城を築き、地名を「福山」と名づけました。備後福山は城を築くまで海沿いの小さな船着場、漁村だったようです。
一面は干潟の状態で町として利用するためには不十分な状態にありました。福山城築城の後も、城下町の設営・干拓・治水工事など福山の礎を築いた他、神社仏閣の修理や再建にも力を尽くします。
水野氏治世80年の福山藩時代は、新田開発の連続であり、現在の福山市街地及び新市街地のある福山平野の80%以上が、この時代に造成されました。

水野家が改易となった後、1711(正徳元年)年、下野国宇都宮藩(10万石)から阿部正邦が10万石で入封し、以後、阿部氏は幕末維新まで続きました。この間老中を4人、大坂城代を1人輩出します。特に7代藩主・阿部正弘はわずか25歳で老中首座に就任し幕政を主導しました。

そのような歴史的な経緯から広島市や岡山県とも異なる独自の気質を持つとされています。

沼隈半島を中心に作られる畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られていました。
江戸時代以前から備後地域ではイ草が栽培され、畳表が生産されていました。その価値をより一層高めたのが、福山藩初代藩主の水野勝成でした。
畳表を福山藩の特産品にする「ブランド化戦略」として、畳表を織る村々を経済的に保護し、イ草を染めるための色土の産出地を指定するなど、その製法にも細かく決まりを設けました。さらに、イ草・色土を他領へ持ち出すことを禁じたりした施策から、備後表の品質は向上し、やがて一級のブランド畳として認知されるようになっていくのでした。
現代では備後表の職人は減少していますが、福山の名産品としてイ草の増反、備後表の保全と製法や技術の継承に向けて活動が続いています。
[ 備後福山家具産地の成り立ち ]
備後家具の「府中家具」は300年の歴史と伝統に培われた全国有数の高級家具の産地です。1700年頃(宝永年間)に内山円三が大阪から箪笥の製法技術を学び帰ったのが始まりとされています。大正時代になると職人数も増え、市内には百数十軒もの箪笥職人が軒を連ね、ノミやカンナを使う音が絶えなかったと云います。
府中で桐箪笥や桐細工に、その南の福山では福山家具や福山琴、そして松永で松永家具や松永下駄が生まれました。
そしてこの地の気候が瀬戸内海式気候という天日乾燥には最高の気候で良質の木材を生成できました。ただ国内の他の産地と違い木材はそこまで多く産出できないことから加工でカバーしてきたため、その技術が発達していった側面があります。
木製家具製造業が一大産地を形成している備後地方においても、昭和30年代の大量移出時代を牽引した婚礼家具業者グループと、特殊技能を生かした別注家具グループとにわかれて、それぞれ発展してきました。
その後、急速に広まった生活様式の洋風化・個性化は、高級家具の需要増大をもたらし、伝統的な技術をもとに作られた製品は、その品質で備後の家具業界の一翼を担うまでに発展しました。


<備後福山家具産地では1工場で製作しています>
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■備後福山 脚物家具工場
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・SAYANI(サヤニ) / 他4アイテム製作
次回完結、生産拠点のご案内は九州地方(日田・佐賀)編です。

【問い合わせ】
エース物産株式会社 フレイス インテリア ディビジョン
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