FLACE MAGAZINE
当社FLACE商品の生産拠点をご案内いたします。九州編
【 FLACE家具は国内生産 】
FLACEカタログのオリジナル製品は木製品・金属製品問わず全て日本国内製造のMade in Japanです。
ファブレスメーカーの当社は生産工場を持たないために、国内の各生産拠点での製品品質や性能に見合った生産ラインを有する国内各家具産地の提携工場にて生産を委託しています。
国内家具産地にはそれぞれ特色がある工場が地場産業として地域の経済に貢献していますが、弊社も地域活性化や地方創成のお手伝いが出来るように、全国9工場(北は山形から南は大分)にて、それぞれのスタイルに合った加工技術を用いて高品質な製品の生産を委託し、お届けしています。 
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[ 生産拠点のご案内 ]
九州編では、日田家具産地と諸富(佐賀)家具産地の伝統と特性をご案内いたします。
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天領日田・豆田町(重要伝統的建造物群保存地区) 
[ 日田の歴史と伝統 ]
日田は古くより山紫水明の里「水郷ひた」として知られています。
「水郷」は濁らずに「スイキョウ」と発音するのですが、それほど水も山も人情も清らかだ(濁っていない)とある文人が賞賛したからといわれています。その水郷のシンボルが三隈(みくま)川。
隈(くま)地区の旅館街裏の三隈川に浮かぶ遊舟(屋形船)は夏の風物詩で、遊舟からは、400年の伝統を持つ鵜飼(大分県無形民俗文化財)を見物することができます。

日田は日本三大美林のひとつに賞される林業地で、基幹産業は林業でした。昔より三隈川が木材の運搬手段としても、なくてはならないものでした。上流の玖珠や小国方面から切り出された日田杉は、この地域で筏になり河口の大川市まで運ばれていました。昔は数多くの筏師が居たそうです。 当時の筏師は大川市までの移動中、飲み水を持って行かず川の水を飲んでいたといいます。
それだけ水質が良かったようです。日田の産業の発展は、まさに川とともにあったといえるでしょう。

江戸時代の日田は九州の天領地を統括する代官所が置かれ、その代官に保護を受けた幾つかの豪商が出現します。
九州の諸大名や幕府領民を相手に掛屋という貸付業を営み、その貸金には郡代の威光によって貸倒れがなかったので、莫大な利益が生まれました。その貸金のことを「日田金」と呼びましたが、これにより日田は全国でも屈指の経済的繁栄をした地域となりました。その豪商は日田商人(御用達)と呼ばれていました。
代官や掛屋らによって江戸や上方、長崎の文化がもたらされ、天領という比較的自由な空気の中で独特の商人文化を築き上げた町で、当時の町並みや建物、文化財が今も豆田町と隈町に残っています。
日田市ではこの地域の歴史的町並みの保存に力を注いでおり、昭和50年代から、古い町並みを守り活かした町づくりを展開させています。
[ 日田家具産地の成り立ち ]
北部九州の中央に位置する大分県日田市は、1686(貞享三)年から西国統治の拠点となる郡代が置かれた幕府直轄の地でした。
多くの人やモノが行き交い繁栄した天領·日田は、今も九州各県をつなぎ、独自の歴史·文化が横たわっています。
周囲を山々に囲まれ、水清らかな川が流れる日田は、自然の恵みを活かした産業が多く、林業・木工業もそのひとつです。
日田杉の植栽は、宮園神社境内にある樹齢約500年の御神木が起源とされています。その後一般的に杉の植栽が始まり西南戦争の復興や日清戦争などによる木材需要の高まりにより日田の林業は繁栄しました。
1907(明治40)年、周辺地域の豊富な森林資源を活用して、それまでの原木や製材品の流通だけでなく漆器などの工芸品生産が行われ、ロクロ技術など木工品の製造技術が発展してきました。
家具生産の起点は、従来よりあった製造技術を基盤として戦後、食堂用の丸椅子と地元の雑木を使って飯台(食事の台)等の生産をしたのが始まりです。
その後、生活様式の洋風化に伴いリビングセットやダイニングセット等の脚物家具を主として生産され産地が形成されました。現在では、脚物家具は大分県日田市、箱物家具(箪笥等)は福岡県の大川市というように全国的にも珍しい家具生産の一大集積地です。


<日田家具産地では2工場で製作しています>
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日田 脚物家具・箱物家具 工場   
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■ORVILLE-WL(オービル) Bench / 他8アイテム製作
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■RAHY(ラーイ) Sofa / 他1アイテム製作
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筑後川河口部・佐賀市諸富町   
[ 諸富(モロドミ)の歴史と伝統 ]
諸富町には「徐福の伝説」(徐福:秦氏・波多野氏のルーツ説の1つ)があります。
今から約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて海を渡った徐福は、現在の有明海、佐賀市諸富の海岸に辿り着いたといわれています。佐賀県内には徐福にまつわる話が数多く残っています。
徐福はこの地を去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えたと伝えられています。 白檀に似ているというビャクシン(柏槇:ヒノキ科の針葉樹)は天に向かってまっすぐに伸び,樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけています。 この地域では,新北(にきた)神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここにしかないといわれ,徐福伝説が真実であると伝えられています。 (実は本州,伊豆半島の大瀬崎一帯に百数十本のビャクシン樹林があります。大瀬崎は伊豆半島の西海岸側の根元にあり,徐福一行が最後に上陸したとされる静岡県富士市あるいは沼津市と向き合っています。)

佐賀藩(鍋島藩)は、鍋島直茂が藩祖。「肥前国」(びぜんのくに)の佐賀郡にあった藩であり、明治維新を主導した「薩長土肥」のひとつです。 佐賀藩といえば、佐賀藩士「山本常朝」(やまもとつねとも)が武士としての心得「葉隠」の口述者として有名です。

佐賀県南東部に諸富町は位置し、福岡県との境にあります。筑紫平野の一部で、地形は平坦です。町の南東に筑後川が流れていて、川の中州として大中島があります。
南は筑後川を挟んで木工の街・福岡県大川市と向き合っています。大川市はおよそ400年の伝統がある全国一を誇る木工の街で、家具や建具づくりが盛んです。また大川はいにしえより筑後川下流の水運基地でした。海運関係者の信仰が厚い風浪宮(ふうろうぐう)が鎮座しています。風浪の灘を守護する神社です。境内には弥生時代の貝塚があり、弥生人も海で漁労に従事していたようです。
大川には沢山の船大工が集まって、千石船などの木造船が盛んに作られていました。千石船は米千石(1石は米10斗、約180リットル)を積む船ということで、特定の船型があったわけではありませんが、江戸中期以降は弁財船が普及すると、積載量の大小に関わらず弁財船を千石船といったようです。
筑後川の上流は森林地帯です。筑後川では江戸時代から昭和の半ばまで木材はいかだに組んで運んできました。 上流の日田には日田杉などを筏に組んだ筏場(いかだば)の地名がありました。
そして、家具や建具をつくっていた船大工が専業化して箪笥(タンス)等を盛んにつくるようになり、広く知られるようになりました。船大工のすぐれた技術が木工大川の繁栄の素地となっていったのです。
[ 諸富(モロドミ)家具産地の成り立ち ]
佐賀市諸富町では、家具を作る指物大工を中心に古くから木工業が営まれていました。
1935(昭和10)年には旧国鉄佐賀線が開通し、400年の歴史を誇る家具産地の福岡県大川市から人々が往来するようになり、新たな木工技術が伝わりました。
1955(昭和30)年には筑後川に諸富橋と大川橋が開通し、交流がますます盛んになります。 諸富家具とは、佐賀県指定(佐賀県指定伝統的地場産品)の諸富家具・建具は伝統的な工芸品として佐賀県より地場産品の一つとして指定をうけており、今もなお伝統的な技術・技法を引き継ぎ製作されています。諸富町は大川市に次ぐ九州の一大家具産地として、筑後川をはさみ隣接する大川家具とともに発展してきました。


<諸富家具産地では1工場で製作しています>
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諸富 脚物家具工場   
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■LONHRO(ロンロ)Bench / 他1アイテム製作

【問い合わせ】
エース物産株式会社 フレイス インテリア ディビジョン
TEL 03-6550-9212
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